大判例

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大阪地方裁判所 昭和38年(レ)40号 判決 1965年1月21日

控訴人

北川光子

右訴訟代理人

塩見利夫

被控訴人

畑中直子

右訴訟代理人

井上太郎

主文

原判決を取り消す。

被控訴人の控訴人に対する大阪簡易裁判所昭和三〇年(イ)第二三一一号和解調書に基づく強制執行は、これを許さない。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。本件につき昭和三八年三月四日当裁判所がなした強制執行停止決定は、これを認可する。

前項に限り仮に執行することができる。

事実

控訴代理人は、主文第一乃至第三項同旨の判決を求め、控被訴代理人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

控訴代理人は、次のとおり述べた。

「一、被控訴人(申立人)と控訴人(相手方)との間の大阪簡易裁判所昭和三〇年(イ)第二三一一号起訴前の和解申立事件につき、昭和三〇年一〇月二七日、「控訴人は被控訴人より別紙物件目録記載の建物(以下本件建物という。)を、期間を昭和三〇年八月二五日から満三カ年と定めて賃借し、右期間満了したときにおいて、被控訴人から明渡しの要求を受け、これに応じない場合は明渡しの強制執行を受けるも異議がないことを認諾する」等の条項を記載した和解調書が作成されている。<以下省略>

理由

一、控訴人(相手方)と被控訴人(申立人)との間の、大阪簡易裁判所昭和三〇年(イ)第二三一一号和解申立事件につき、控訴人主張の日にその主張するとおりの内容の和解条項が記載されている和解調書が作成されたことは、当事者間に争いがない。

二、控訴人は、本件裁判上の和解には、その前提である争いが当事者間に存在しなかつたから、本件和解は無効である旨主張するので、考えてみる。

およそ民事訴訟法三五六条一項にいう起訴前の和解の前提としての争いとは、必ずしも厳格に権利関係の存否、内容範囲に関するもののみに限らず、起訴前の和解が、公正証書によつては債務名義となし得ない給付義務について債務名義を作成する一方法として一般に広く利用されている実情に鑑み、権利関係についての不確実や権利実行の不安全をも含むばかりでなく、現在における紛争の外、争いを予測しうる限り将来発生する可能性のある争いを広く包含するものと解するのが相当であるところ、これを本件について検討するに(証拠―省略)を総合すれば、控訴人は、昭和三〇年八月末頃、被控訴人に対し、当時訴外和田捷三郎が賃借していて現実には訴外山口某が居住していた本件建物を賃借したいと申し入れ以前被控訴人方で従業員として働いたことのある訴外浅原延一の斡旋で本件賃貸借(賃料が一カ月金九、〇〇〇円、期間が昭和三〇年八月二五日から満三年であることは当事者間に争いがない。)が成立したものであつて、控訴人が訴外山口某から本件建物賃借権の譲渡を受けたものでないことが認められ、(中略)(証拠―省略)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、被控訴人が、本件建物と棟続きの他の三戸を訴外明石清治、同中野常三郎、同和田捷三郎に賃貸するについて、同人等との間でそれぞれ建物賃貸借公正証書を作成したが、控訴人との間では本件如解調書の外に右のような公正証書を作成しなかつたことが認められ、他に右認定を覆えすに足る証拠がなく、更に(証拠―省略)によれば、被控訴人が、弁護士である訴外花房節男に対し、本件賃貸借の賃料を将来増額しうるものとすること、三年の賃貸期間が経過すれば控訴人において本件建物を明け渡すべきことを明確にするため本件和解を申し立てるように依頼したことが認められ、(中略)他に右認定を左右するに足る証拠がない。

右に認定した各事実によれば、被控訴人が昭和三〇年八月二五日本件建物を控訴人に賃貸するに際し、三年の期間が満了したときに控訴人が果して本件建物の明渡義務を異議なく履行してくれるか否かについて、多大の不安を抱いていたであろうことは、容易に推測されるところであるから本件裁判上の和解を申し立てるについては、その前提としての争いが存在していたことは前示説示にてらし明白である。

ところで、起訴前の和解において、申立書に請求の趣旨及び請求の原因を表示すべきことが要求されるのは、いかなる民事上の紛争について和解が申し立てられているかを管轄裁判所に了知せしめるためであつて、これにより和解で確定される権利関係の範囲が厳格に限定されるものではなく、又争いの実情を表示することが要求されるのは、当事者間における紛争の実態を右裁判所に明瞭ならしめ、もつて和解勧告の便宜に供しようとするためであるから、右裁判所において、争いの表示が不十分又は欠缺しているにかかわらず、申立を却下することなく和解を成立させても、そこには何らの違法が存しないといわねばならないところ、被控訴人が本件和解申立書に請求の趣旨として、「本件賃貸借の賃料が諸税公課の変動に伴い変動することについて予め承認せよとの和解を求める。」と記載し、請求の原因として、「被控訴人は控訴人に対し、本件建物を賃料は一カ月金九、〇〇〇円毎月末日までに翌月分持参払い、期間は昭和三〇年八月二五日から三カ年と定めて賃貸しているが、将来諸税公課経済情勢の変動に伴い賃料の変更を余儀なくされることができる。」旨記載し、争いの実情として「右原因を控訴人に話すも承諾しないが別に争おうともしないので当事者双方を呼び出して和解の勧告を求める。」旨記載されていることは当事者に争いのないところであるけれども、控訴人に対し、本件建物の明渡義務を命ずる和解条項も、右請求の趣旨と同様に同じ賃貸借関係についての紛争から派生したものであると認むべきであるから、本件和解の申立と無関係であるとはいえず、又争いの実情の記載が、本件建物の明渡しに関する紛争に触れておらず、それ自体としては不十分又は欠缺しているとしても、管轄裁判所が和解申立を却下することなく、和解を成立させている以上、そのことを後になつて争うことはできない。

以上の理由で、本件和解にはその前提たる争いがないことを理由に本件裁判上の和解が無効であるとする控訴人の主張は理由がない。

三、よつて次に本件賃貸借の期間が満了したときは本件建物を明け渡す旨の和解調書の記載が借家法の適用を受け、かつ賃借人に不利益な条項であるとして無効と解すべきかどうかについて検討する。

本件和解調書には、「控訴人は被控訴人より本件建物を期間は昭和三〇年八月二五日から満三カ年とするとの約定で賃借し、期間が満了したときは被控訴人から明渡退去の要求を受け、これに応じない場合は、明渡しの強制執行を受けるも異義なきことを認諾する」旨の記載があることは当事者間に争いがない。ところで、起訴前の和解は訴訟行為としての性質を有すると共に私法行為としての性質をも有し、前者の効力は後者の効力と運命を共にする関係にあるから、先ず私法行為としての和解条項が借家法との関係で如何に解すべきかを考えてみるに、当事者間で賃貸借の終了原因が争われた結果、訴訟が提起され又は起訴前の和解が申し立てられた上、和解成立の時から一定期間明渡しを猶予し、又は一定期間経過後に賃貸借を解除する旨の明渡しを目的とする和解が成立した場合には、右和解については借家法の適用がないというべきであるけれども、賃貸借成立の時に、将来の明渡しを確保し、明渡しの債務名義を獲得するために、起訴前の和解が申し立てられた場合には、右賃貸借が一時使用の賃貸借と認定されない限り、当然借家法の適用を受けるものと解するのが相当であるところ、(証拠―省略)によれば、控訴人は、昭和三〇年六月一一日夫と死別し、それまで営んでいた小料理屋を閉店したが、控訴人の家族は九人もいるため、生活費や子供の学資を稼ぐ目的で本件建物を賃借してバーを営業するようになつたものであるが、本件賃貸借成立前に控訴人が本件建物でバーを営んだ事実がなく、本件賃借に際し、控訴人は被控訴人に対し名義変更料名下に金一〇〇、〇〇〇円を交付し、当時本件建物でバーを営んでいた訴外山口某には老舗料として金一、二〇〇、〇〇〇円余りを支払つたことを認めることができ、(中略)他に右認定を覆えすに足る証拠がない。

右に認定した各事実に、前示認定にかかる、控訴人が、昭和三〇年八月末頃、当時訴外和田捷三郎が賃借していて現実には訴外山口某が居住していた本件建物を賃借したいと被控訴人に申し入れ、訴外浅原延一の斡旋で本件賃貸借が成立したこと、被控訴人が本件和解調書の外に控訴人との間で公正証書を作成しなかつたこと、被控訴人が弁護士訴外花房節男に対し、本件賃貸借の賃料を将来増額しうるものとすること並びに三年の賃貸期間が経過すれば控訴人に本件建物を明け渡してもらうことを明確にするために、本件和解を申し立てるよう依頼したこと、の各事実を総合勘案すれば、本件賃貸借は、昭和三〇年八日末日頃はじめて成立したもので、被控訴人が本件和解を申し立てたのは、和解調書を作成することにより公正証書を作成するのと同様に本件賃貸借の内容を明らかにする目的を持つ外に、賃貸期間が満了する等和解調書に記載された理由が発生することにより、本件賃借が終了した場合に、控訴人において本件建物を明け渡す義務があることを明確にし、その債務名義を獲得するためであつたということが容易に推認されるところであるから、賃貸借期間が満了したときは本件建物を明け渡すべき旨の本件和解条項は、借家法一条の二及び二条に違反し、かつ、右条項は借家人に不利益な条項というべきであるから、本件賃貸借が一時使用の賃貸借と認定されない限り、同法六条により右条項はこれを定めなかつたものとみなされねばならない(しかも右和解条項は期間満了の際には無条件で明け渡す旨を記載したものであり、明渡義務の発生が借家法一条の二、二条に定める条件の成就にかかつている趣旨のものでないことは、その条項自体から明らかなところであるから、右条件が成就したか否か、換言すれば正当事由に基づく更新拒絶がなされ、かつ期間満了後被控訴人において控訴人の本件建物使用に異議を述べたか否かについては、判断する必要がないものというべきである)。

四、そこで本件賃貸借が一時使用の賃貸借であるかどうかについて考えてみる。

(証拠―省略)によれば、被控訴人が控訴人よりいわゆる権利金や敷金の交付を受けていないこと、被控訴人が、本件建物の奥に、本件家屋を通つて出入するほかのない一坪半の建物を早く使用したいと考えていたこと、を認めることができるが、前示認定の各事実、就中、控訴人が夫の死亡後小料理店を閉店し、家族を扶養するため本件建物を賃借してここでバーを営んでいること、被控訴人に名義変更料名下に金一〇〇、〇〇〇円を、訴外山口某に老舗料として金一、二〇〇、〇〇〇円余りを支払つていること(被控訴人が訴外和田捷三郎に敷金六五〇、〇〇〇円を返還したという立証がないので、敷金の返還について控訴人が実質的に控訴人の肩がわりをしたことになると考えられる。)と対比して考えると、被控訴人側に右事実があるからといつて、本件賃貸借が一時使用の賃貸借であると認定するわけにはいかず、他に一時使用の賃貸借であることを認定しうる的確な証拠がない。

したがつて、本件賃貸借が一時使用の賃貸借であるという被控訴人の主張は採用できない。

五、してみるとその余の主張について判断するまでもなく、本件和解調書記載の条項中、本件賃貸期間の末日限り控訴人に本件建物の明渡義務が発生する旨の条項はその効力を生ずるに由なく、被控訴人は右条項に基づいて控訴人に対し本件建物明渡しの強制執行をすることができないといわねばならないから、これが執行力の排除を求める趣旨で本件和解調書の執行力の排除を求める控訴人の本訴請求は正当として認容すべきであり、これを棄却した原判決は失当として取消しを免がれない。

よつて訴訟費用の負担について民事訴訟法九六条前段、八九条を、執行停止決定の認可、並びに、その仮執行の宣言について同法五四八条一項、二項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。(下出義明 寺沢栄 喜多村治雄)

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